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#周りの誰かに助けてもらう
お正月や受験を控えて神社仏閣へ参拝される方も多いと思います。信仰に関わることですからあくまでも持論ですが、私は神仏の加護を受けるものは、その前にまず周りの人々から助けられていると思っています。
中学受験をする小学生に「神様に祈れば合格するの?」と真顔で聞かれたことがあります。訝しげで不安そうでしたが、賢そうなその顔つきは真剣でしたから向き合って話しました。祈りは毎日の生活そのもので、神様はそれを天から見ておられると思っています。勉強して成長した自分は何を成したいのか?その動機を仏は心の中から見ておられると思います。合格が幸せならば、不合格は不幸せだということになりますが、人生はそんなものではないことは私ですら知っているので、神仏からはもっと大きな視点で見守られていることを話しながら「君をずっと見てきたご両親や先生方が応援してくれているなら、神仏も応援してくれると思う。でも、答案を書くのは自分だからね」と伝えました。
私自身も迷った時には、どうしたら人が助けてくれる自分でいられるか、その動機と行動をいつも自問しています。(文・正木)
中学受験をする小学生に「神様に祈れば合格するの?」と真顔で聞かれたことがあります。訝しげで不安そうでしたが、賢そうなその顔つきは真剣でしたから向き合って話しました。祈りは毎日の生活そのもので、神様はそれを天から見ておられると思っています。勉強して成長した自分は何を成したいのか?その動機を仏は心の中から見ておられると思います。合格が幸せならば、不合格は不幸せだということになりますが、人生はそんなものではないことは私ですら知っているので、神仏からはもっと大きな視点で見守られていることを話しながら「君をずっと見てきたご両親や先生方が応援してくれているなら、神仏も応援してくれると思う。でも、答案を書くのは自分だからね」と伝えました。
私自身も迷った時には、どうしたら人が助けてくれる自分でいられるか、その動機と行動をいつも自問しています。(文・正木)
#比較しない 自分の基準
良い店、美味しい店をお客さんが投票して評価するアプリがありますが、私は疑問を持っています。「多くの人が良いと言っている」のは「行列のできる店なら美味しいだろう」といった感覚に近いのかも知れませんが、実際に並んでいる人が見えるならば、例えば若い人ばかりが並ぶ店だと私は(きっと嗜好が合わないと想像でき)「並ばない」という選択ができるのですが、アプリだとその行列(数値の構成要素)は見えないのでアテにならないのです。
多数決で良い店を決めるのはナンセンスで、せいぜい家族やよく一緒に食事をする友人の評判を手掛かりにするくらいで良いのではないかと思います。ただ、この言い分には年齢や経験といった要因もあるかも知れません。私も若い頃には観光地の名所の写真を撮って周るような旅行をしましたが、今は気に入った景色を見つけては写真に納めます。自分の基準で行動する方が幸福度は高まると思うようになりました。(文・正木)
多数決で良い店を決めるのはナンセンスで、せいぜい家族やよく一緒に食事をする友人の評判を手掛かりにするくらいで良いのではないかと思います。ただ、この言い分には年齢や経験といった要因もあるかも知れません。私も若い頃には観光地の名所の写真を撮って周るような旅行をしましたが、今は気に入った景色を見つけては写真に納めます。自分の基準で行動する方が幸福度は高まると思うようになりました。(文・正木)
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#豊かさとは経験の多さ
豊かさというと何を思い浮かべますか?経済的豊かさはわかりやすいですが、心の豊かさとは何でしょうか?私は経験の豊富さだと思っています。若い頃は良い経験を積もうと考えましたし、周りの大人からもそう言われたように思います。しかし、自分が年を取って思うのは良し悪しは選ぶものではないということです。どんな経験も心の糧になると思いますし、多ければ多いほど豊かになれると思います。善行を積むという言葉があります。良い行いをするということですが、その基準は何でしょうか?飢えて死にそうな蛇が鼠を食べようとしている場面で、自分はどうすれば良いかと考えてみて下さい。チベットの僧侶に教わった話ですが、鼠が食べられるのは可哀そうと思って救ったならば、結果として蛇が飢えて死んでも悪業にはならない。飢えた蛇が可哀そうと思って見逃した結果、鼠が食べられて死んでも、それは悪業とはならないそうです。仏の教えを参考にするならば行動の動機が経験の良し悪しを決めるということになります。選ぶのではなくどう受け止めるか、ということなのだと思います。(文・正木)
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#不完全を愛でる
共創型モノづくり「この指とまれ」で蓋物のお椀をつくろうと陶芸家の方に相談しています。粘土で形づくった際にはピッタリ合っている蓋が、焼くと収縮率の違いで合わなくなることがあるそうです。そう聞けば「そりゃそうだろう」と思えます。腕の問題かと言えばそうとも言い切れず、一定の割合で生じ、合わないものは破棄するそうです。歩留まりが悪くなる分は正規品のコストに反映されることになります。面白いことに、以前に老舗料亭で江戸時代の器だというカタカタと音がする蓋物を「最初は合っていたかも知れないが、たくさんあるからいちいち合わせていられない」と説明されましたことがありますが、他の客人も私も妙に納得して料理を頂いたことがあります。
その背景にあるものを知って理解し、あるいは経験して納得すれば許容できることは沢山あります。いっそのこと、これを文化的成熟と考え、その不完全さを愛でることができたら豊かな気持ちになれそうです(文・正木)
その背景にあるものを知って理解し、あるいは経験して納得すれば許容できることは沢山あります。いっそのこと、これを文化的成熟と考え、その不完全さを愛でることができたら豊かな気持ちになれそうです(文・正木)
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#いくら稼いだかより何に使ったか
お金持ちに憧れる気持ちは誰にでもあると思います。では、お金でその人の値打ちまで決まるのでしょうか?「お金か愛か?」という古典的な問いもありますが、なぜそれらを比べるのでしょうか?子供が「将来はお金持ちになりたい」と言ったら大人は何と言ってあげたら良いでしょうか?
お金を得ることは素晴らしいことですが、いくら稼いだかより何に使ったかが大切だと思います。「凄いお金持ち」は凄いのかも知れませんが、その凄いお金を素晴らしいことに使ったならば、その人は「素晴らしい人」だと思います。尊敬すべきは、お金を素晴らしいことに使った人です。前述の子供には「お金持ちになって、そのお金で何をしたいの?」と問いながら、それを教えてあげたいと思います。お金持ちを成功者とみるのではなく、そのお金やお金を稼ぐ能力を活かして、世の中の様々な問題を解決する人こそが必要であり、尊敬されるべきでしょう。(文・正木)
お金を得ることは素晴らしいことですが、いくら稼いだかより何に使ったかが大切だと思います。「凄いお金持ち」は凄いのかも知れませんが、その凄いお金を素晴らしいことに使ったならば、その人は「素晴らしい人」だと思います。尊敬すべきは、お金を素晴らしいことに使った人です。前述の子供には「お金持ちになって、そのお金で何をしたいの?」と問いながら、それを教えてあげたいと思います。お金持ちを成功者とみるのではなく、そのお金やお金を稼ぐ能力を活かして、世の中の様々な問題を解決する人こそが必要であり、尊敬されるべきでしょう。(文・正木)
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#1割の理想を思い描く
会社を受け継いだころは「1割の理想のための9割の現実」とよく言っていました。仕事に限らず理想を思い描くことは大切だと思います。若い頃ならともかく…と考えずに、今でもあるべき姿を思い浮かべます。1割というのは、魅力を体現するのには、それで十分だからです。それを支える9割の現実の部分は「解決できる問題は解決し、解決できない問題は受け入れる」という構えです。解決したら経験値が高まり、受け入れたらその分だけ度量が大きくなると思っています。結局は、きちんと向き合えばどちらであれ成長につながります。
政界、財界、芸能界…大物がいなくなったと言われるのは、失敗しなかったものが出世する仕組みの中で人がカシコクなってナンダカンダと解決できた感じ(例えば「合理化」とか)にでき、自分でココまでと決めたところより先は巧く責任転化して、受け入れることが少なくなったからだと思います。良し悪しはともかく、親分子分の時代は終わって皆が同等な世の中ですが、小さくても光る魅力が求められることに変わりはありません。(文・正木)
政界、財界、芸能界…大物がいなくなったと言われるのは、失敗しなかったものが出世する仕組みの中で人がカシコクなってナンダカンダと解決できた感じ(例えば「合理化」とか)にでき、自分でココまでと決めたところより先は巧く責任転化して、受け入れることが少なくなったからだと思います。良し悪しはともかく、親分子分の時代は終わって皆が同等な世の中ですが、小さくても光る魅力が求められることに変わりはありません。(文・正木)
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#過去で未来を決めない
時間は過去から現在、未来へと過ぎてゆきます。実感としては疑う余地はありませんが、過去の何かを根拠に未来を決めつけてしまうことがあります。ネガティブなことほど、その傾向があるようです。一方で未来は変えられるが、過去は変えられないと考える向きもあります。でも、最悪の思い出が、あれはあれで良かったと思えるようになることもあります。どちらも現在の自分がそうしているに過ぎません。
最新の物理学では時間の可逆性に理論上の矛盾はないそうですが、そもそも時間そのものが存在しないと考える説もあるようです。平家物語の冒頭の「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」を中学の教科書で素読した思い出がある方も多いと思いますが、諸行無常は「永久不変のものはこの世にない」という意味でした。その根拠を仏教では無常を分析してすべての事象は「刹那滅」という一瞬の間に生じて滅することの連続に過ぎないと考えて説明しています。
現象を心象がつくりだしているのかも知れません。確実にあるのは今この瞬間だけ。過去も未来も、今の私たちの心の投影に過ぎないと考えることができそうです。(文・正木)
最新の物理学では時間の可逆性に理論上の矛盾はないそうですが、そもそも時間そのものが存在しないと考える説もあるようです。平家物語の冒頭の「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」を中学の教科書で素読した思い出がある方も多いと思いますが、諸行無常は「永久不変のものはこの世にない」という意味でした。その根拠を仏教では無常を分析してすべての事象は「刹那滅」という一瞬の間に生じて滅することの連続に過ぎないと考えて説明しています。
現象を心象がつくりだしているのかも知れません。確実にあるのは今この瞬間だけ。過去も未来も、今の私たちの心の投影に過ぎないと考えることができそうです。(文・正木)
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#誰かの幸せは自分の幸せ
「和をもって貴しとなす」は聖徳太子による十七条憲法の最初の言葉としてあまりにも有名です。続く第二条で「篤く三宝(仏、法、僧)を敬へ」とするほど仏教に帰依した太子が血で血を洗う争いの時代を終わらせ、国を定めるべく制定された日本初の憲法は、今に至るまで日本人の価値観や精神の真ん中に息づいていると思います。仏教には「随喜」という言葉がありますが、誰かが善い行いをして徳を積んだならば、それを喜ぶというものです。心から喜べば、その人と同じ功徳を自分も積んだことになるとされています。これの反対が「嫉妬」で煩悩の一つです。
「慈悲(思いやり)」は心の灯明(ロウソクの灯)を誰かに分け与えるようなものなのだそうです。いくら分けても自分の灯は消えない。もし消えたとしても周りが明るければ困らないし、また分けてもらうこともできる。この例えはチベット僧から教えてもらいました。幸せな人の笑顔に囲まれていたら自分も幸せですよね。和顔施(わがんせ)と言って、やさしい微笑みをもって人に接することもお布施らしいです。(文・正木)
「慈悲(思いやり)」は心の灯明(ロウソクの灯)を誰かに分け与えるようなものなのだそうです。いくら分けても自分の灯は消えない。もし消えたとしても周りが明るければ困らないし、また分けてもらうこともできる。この例えはチベット僧から教えてもらいました。幸せな人の笑顔に囲まれていたら自分も幸せですよね。和顔施(わがんせ)と言って、やさしい微笑みをもって人に接することもお布施らしいです。(文・正木)
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#決めつけや思い込みの枠を自力で超える
科学、技術、工学、芸術、数学に重点を置いた総合的な教育である(各頭文字を取った)STEAM教育が、問題解決や批判的思考、創造性の点から現代社会に必要とされるスキルを養うとしてアメリカ合衆国を中心に20年程前に提唱され、最近は日本でも広がりを見せています。一方で日本の義務教育は主教科が国語、算数(数学)、理科、社会、英語。副教科は音楽、美術、(保健)体育、家庭科、技術と元々多岐に渡ります。自国の教育方法を他国から学ぶ前に、そもそも主と副という重要度の度合いを勝手に決めつけることをやめ、主教科を中心とした受験勉強一辺倒の教育を見直すべきだと思います。
日本では自然をモチーフにしたデザイナーとして有名なイギリス人のウィリアム・モリスは、詩人で社会活動家でもありますが、労働、芸術、社会、自然を並列に切り口として語り、理想の社会の在り方を提唱しました。これは後に日本の民藝運動にも影響を与えました。150年程前の話です。世の中に境目はありませんから、専門と称してジャンルに留まる人ばかりでは豊かな社会は創り出せないのだと思います。(文・正木)
日本では自然をモチーフにしたデザイナーとして有名なイギリス人のウィリアム・モリスは、詩人で社会活動家でもありますが、労働、芸術、社会、自然を並列に切り口として語り、理想の社会の在り方を提唱しました。これは後に日本の民藝運動にも影響を与えました。150年程前の話です。世の中に境目はありませんから、専門と称してジャンルに留まる人ばかりでは豊かな社会は創り出せないのだと思います。(文・正木)
#使っている言葉を見直してみる
北極圏の先住遊牧民ネネツ族には「ありがとう」という言葉がない、というルポタージュを読んで興味をもちました。調べてみるとボルネオ島の森の民プナン族には感謝も反省の概念もないようです。ネネツ族の長に謝意について尋ねると「自分たちが、それと同じ気持ちを持った時には言葉ではなく行動で示す」と答えたそうです。プナン族の場合は、そもそも専有の概念がなくモノをもらっても礼を言わず、壊しても謝る必要はないそうです。これらは助け合うのが当たり前の共同体志向の強い伝統的社会にみられる傾向です。
自国語は文化の基盤ですから大切なことは間違いありませんが、こういった文化人類学的視点は示唆に富みます。日本人にとって「ありがとう」は大切な言葉で多用しますが、言いたくなるところをじっと我慢して態度や行動で謝意を表してみると、いつもの関係に変化があるかもしれません。そんな実験は面白いと思います。(文・正木)
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#続けられる何かを続ける
ずっと続けている事はありますか?10年20年と続けるのは大変なようですが、続けられるのには理由があるはずで、その理由を考えてみると自分にとって大切なもの、本質的な何かがわかるかも知れません。
7歳の時に兄を亡くし、その日から般若心経をあげるようになりました。誰に教えられたかも覚えていませんが子供なりに兄が喜ぶと思ったのでしょう。以来、祈り方やその内容の変遷はあるのですが、日々の生活の中に祈りの時間があります。また、趣味の登山も若い頃は雨が降ったり濃霧に包まれたりすると「チェッ」と思っていましたが、最近は足元に注意することで集中力が高まり、瞑想に近いような気持ちで歩くようになりました。1時間くらいは雑念が湧いてきますが、2時間くらい経つと視界と同様に真っ白な気持ちになって、いつの間にかその山で亡くなった方々の慰霊や、同じ山域を登山する人たちの安全を祈ったりしています。ずっと続けていることが、つながってひとつになっていくのは興味深いところです。(文・正木)
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