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#不完全を愛でる

共創型モノづくり「この指とまれ」で蓋物のお椀をつくろうと陶芸家の方に相談しています。粘土で形づくった際にはピッタリ合っている蓋が、焼くと収縮率の違いで合わなくなることがあるそうです。そう聞けば「そりゃそうだろう」と思えます。腕の問題かと言えばそうとも言い切れず、一定の割合で生じ、合わないものは破棄するそうです。歩留まりが悪くなる分は正規品のコストに反映されることになります。面白いことに、以前に老舗料亭で江戸時代の器だというカタカタと音がする蓋物を「最初は合っていたかも知れないが、たくさんあるからいちいち合わせていられない」と説明されましたことがありますが、他の客人も私も妙に納得して料理を頂いたことがあります。
その背景にあるものを知って理解し、あるいは経験して納得すれば許容できることは沢山あります。いっそのこと、これを文化的成熟と考え、その不完全さを愛でることができたら豊かな気持ちになれそうです(文・正木)
その背景にあるものを知って理解し、あるいは経験して納得すれば許容できることは沢山あります。いっそのこと、これを文化的成熟と考え、その不完全さを愛でることができたら豊かな気持ちになれそうです(文・正木)
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#完璧を求めない豊かさ

完璧を目指すことは本来ならば素晴らしいのですが、度が過ると不満や不安の原因になります。それでは心豊かとは言えません。子供や若者にとって未熟さは伸び代に他ならないので、足りない分は未来の可能性と言えます。大人の場合はそれが現実ならば受け入れることも人の器と言えるでしょう。
先人は「足るを知る」と言いましたが、出典の『老子』には「足るを知るものは富み、強めて行うものは志有り」とあります。満足することを知っている者は心豊かであり、そこからさらに努力する者にこそ志は宿る、という意味のようです。
私はこれをヒントに「有るものを活かすことは無いものを手に入れる努力に等しい」と考えるようになりました。眼前の課題に向き合うと必ず次の段階が見えてくるとも思います。不完全さや欠点を魅力に変えることができたなら、それは誰にも真似のできない魅力となるでしょう。不完全さを愛でるセンスを磨きたいと思います。(文・正木)
先人は「足るを知る」と言いましたが、出典の『老子』には「足るを知るものは富み、強めて行うものは志有り」とあります。満足することを知っている者は心豊かであり、そこからさらに努力する者にこそ志は宿る、という意味のようです。
私はこれをヒントに「有るものを活かすことは無いものを手に入れる努力に等しい」と考えるようになりました。眼前の課題に向き合うと必ず次の段階が見えてくるとも思います。不完全さや欠点を魅力に変えることができたなら、それは誰にも真似のできない魅力となるでしょう。不完全さを愛でるセンスを磨きたいと思います。(文・正木)
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#周りの誰かに助けてもらう

お正月や受験を控えて神社仏閣へ参拝される方も多いと思います。信仰に関わることですからあくまでも持論ですが、私は神仏の加護を受けるものは、その前にまず周りの人々から助けられていると思っています。
中学受験をする小学生に「神様に祈れば合格するの?」と真顔で聞かれたことがあります。訝しげで不安そうでしたが、賢そうなその顔つきは真剣でしたから向き合って話しました。祈りは毎日の生活そのもので、神様はそれを天から見ておられると思っています。勉強して成長した自分は何を成したいのか?その動機を仏は心の中から見ておられると思います。合格が幸せならば、不合格は不幸せだということになりますが、人生はそんなものではないことは私ですら知っているので、神仏からはもっと大きな視点で見守られていることを話しながら「君をずっと見てきたご両親や先生方が応援してくれているなら、神仏も応援してくれると思う。でも、答案を書くのは自分だからね」と伝えました。
私自身も迷った時には、どうしたら人が助けてくれる自分でいられるか、その動機と行動をいつも自問しています。(文・正木)
中学受験をする小学生に「神様に祈れば合格するの?」と真顔で聞かれたことがあります。訝しげで不安そうでしたが、賢そうなその顔つきは真剣でしたから向き合って話しました。祈りは毎日の生活そのもので、神様はそれを天から見ておられると思っています。勉強して成長した自分は何を成したいのか?その動機を仏は心の中から見ておられると思います。合格が幸せならば、不合格は不幸せだということになりますが、人生はそんなものではないことは私ですら知っているので、神仏からはもっと大きな視点で見守られていることを話しながら「君をずっと見てきたご両親や先生方が応援してくれているなら、神仏も応援してくれると思う。でも、答案を書くのは自分だからね」と伝えました。
私自身も迷った時には、どうしたら人が助けてくれる自分でいられるか、その動機と行動をいつも自問しています。(文・正木)
#お金に換算する習慣を見直す

物事の価値を考える時にお金に換算する傾向がありますが、その習慣は見直した方が良いと思っています。思い出深い形見の品を、売却するつもりならばともかく、人気テレビ番組のように換算して意外と安くてがっかりすることには何の意味もありません。
労働の対価としての賃金は人によって違いますが、時給換算して比較したところで人の価値は測れないはずですが、この錯覚は格差社会における「不幸さ」の一因となっていると思います。仮に育児や家事を労働換算してみたら、かつての子育てしながら家事全般をこなした専業主婦はかなりの高給取りでないと成り立っていなかったということになるのではないでしょうか。
一時間当たりの労働成果を(時給換算せずに)等価交換する発想もあります。通貨の代わりとまではなりえませんが、誰もが平等にもつ時間を等価交換する発想は興味深いと思います。いずれにせよ価値は感じるもので、換算するものではないと思います。その方が幸せだからです。(文・正木)
労働の対価としての賃金は人によって違いますが、時給換算して比較したところで人の価値は測れないはずですが、この錯覚は格差社会における「不幸さ」の一因となっていると思います。仮に育児や家事を労働換算してみたら、かつての子育てしながら家事全般をこなした専業主婦はかなりの高給取りでないと成り立っていなかったということになるのではないでしょうか。
一時間当たりの労働成果を(時給換算せずに)等価交換する発想もあります。通貨の代わりとまではなりえませんが、誰もが平等にもつ時間を等価交換する発想は興味深いと思います。いずれにせよ価値は感じるもので、換算するものではないと思います。その方が幸せだからです。(文・正木)
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#決めつけや思い込みの枠を自力で超える

科学、技術、工学、芸術、数学に重点を置いた総合的な教育である(各頭文字を取った)STEAM教育が、問題解決や批判的思考、創造性の点から現代社会に必要とされるスキルを養うとしてアメリカ合衆国を中心に20年程前に提唱され、最近は日本でも広がりを見せています。一方で日本の義務教育は主教科が国語、算数(数学)、理科、社会、英語。副教科は音楽、美術、(保健)体育、家庭科、技術と元々多岐に渡ります。自国の教育方法を他国から学ぶ前に、そもそも主と副という重要度の度合いを勝手に決めつけることをやめ、主教科を中心とした受験勉強一辺倒の教育を見直すべきだと思います。
日本では自然をモチーフにしたデザイナーとして有名なイギリス人のウィリアム・モリスは、詩人で社会活動家でもありますが、労働、芸術、社会、自然を並列に切り口として語り、理想の社会の在り方を提唱しました。これは後に日本の民藝運動にも影響を与えました。150年程前の話です。世の中に境目はありませんから、専門と称してジャンルに留まる人ばかりでは豊かな社会は創り出せないのだと思います。(文・正木)
日本では自然をモチーフにしたデザイナーとして有名なイギリス人のウィリアム・モリスは、詩人で社会活動家でもありますが、労働、芸術、社会、自然を並列に切り口として語り、理想の社会の在り方を提唱しました。これは後に日本の民藝運動にも影響を与えました。150年程前の話です。世の中に境目はありませんから、専門と称してジャンルに留まる人ばかりでは豊かな社会は創り出せないのだと思います。(文・正木)
#1割の理想を思い描く

会社を受け継いだころは「1割の理想のための9割の現実」とよく言っていました。仕事に限らず理想を思い描くことは大切だと思います。若い頃ならともかく…と考えずに、今でもあるべき姿を思い浮かべます。1割というのは、魅力を体現するのには、それで十分だからです。それを支える9割の現実の部分は「解決できる問題は解決し、解決できない問題は受け入れる」という構えです。解決したら経験値が高まり、受け入れたらその分だけ度量が大きくなると思っています。結局は、きちんと向き合えばどちらであれ成長につながります。
政界、財界、芸能界…大物がいなくなったと言われるのは、失敗しなかったものが出世する仕組みの中で人がカシコクなってナンダカンダと解決できた感じ(例えば「合理化」とか)にでき、自分でココまでと決めたところより先は巧く責任転化して、受け入れることが少なくなったからだと思います。良し悪しはともかく、親分子分の時代は終わって皆が同等な世の中ですが、小さくても光る魅力が求められることに変わりはありません。(文・正木)
政界、財界、芸能界…大物がいなくなったと言われるのは、失敗しなかったものが出世する仕組みの中で人がカシコクなってナンダカンダと解決できた感じ(例えば「合理化」とか)にでき、自分でココまでと決めたところより先は巧く責任転化して、受け入れることが少なくなったからだと思います。良し悪しはともかく、親分子分の時代は終わって皆が同等な世の中ですが、小さくても光る魅力が求められることに変わりはありません。(文・正木)
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#感性を信じて感動したら行動する

「正しいこと」をいう人は多いのに、世の中はそれほど正されません。正義の国でハリウッドが描く悪のヒーローは常に大人気です。正しさが魅力的であれば、きっと世界は美しく変わるのでしょう。どうすれば正しいことを楽しく伝えられるかを考えてみる必要がある…いや、これがそもそもダメなのでしょう。考えるから、つまらないのかも知れません。
規範的な「正しさ」に縛られてワクワク、ドキドキといった心の動きを軽視するようになっていないでしょうか?ワクワクのままに行動しようとして叱られ、心に従うことに憶病になったのかも知れません。そうだとしたらドキドキすることなんかできるはずもありません。「損得勘定」「評判」など心を縛る要因は他にもあるでしょう。癖付いた思考と行動を変えるのは容易ではありませんが、感性を信じて行動したいと思います。決めて行動したことに責任を取るのは自分ですし、世の中をつくっているのは自分達なのですから。(文・正木)
規範的な「正しさ」に縛られてワクワク、ドキドキといった心の動きを軽視するようになっていないでしょうか?ワクワクのままに行動しようとして叱られ、心に従うことに憶病になったのかも知れません。そうだとしたらドキドキすることなんかできるはずもありません。「損得勘定」「評判」など心を縛る要因は他にもあるでしょう。癖付いた思考と行動を変えるのは容易ではありませんが、感性を信じて行動したいと思います。決めて行動したことに責任を取るのは自分ですし、世の中をつくっているのは自分達なのですから。(文・正木)
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#「好き」とは、比べないこと

普段の会話で「どっちが好き?」という聞き方はよくあります。深く考えずにこれを繰り返すうちに相対評価の癖がついてしまっているかも知れません。それでは本当のスキにはたどり着けないのではないかと疑いました。どっちが得か?も好きかどうかには関係ありませんが、何かを選ぶ時にやってしまいがちです。教育的な観点からなるべく好き嫌いをなくさせようとする傾向はあります。食べ物などはそうですし、好き嫌いを言うとワガママだと思われるのではないかという配慮もあるでしょう。幅広く色々なものを理解したり受け入れられたりすることは良いことが多そうですが、本当に大切なモノを選ぶとき、大切なコトを決めるときは本当のスキを基準にしたいと思います。ワガママが許される生き方は幸せの指標になるかも知れません。誰が何と言おうが好きなものは好きで、好きだから大切にする。好きだからやり続ける。誰かと比べず、何かとも比べない。それで良いはずです。(文・正木)
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#過去で未来を決めない

時間は過去から現在、未来へと過ぎてゆきます。実感としては疑う余地はありませんが、過去の何かを根拠に未来を決めつけてしまうことがあります。ネガティブなことほど、その傾向があるようです。一方で未来は変えられるが、過去は変えられないと考える向きもあります。でも、最悪の思い出が、あれはあれで良かったと思えるようになることもあります。どちらも現在の自分がそうしているに過ぎません。
最新の物理学では時間の可逆性に理論上の矛盾はないそうですが、そもそも時間そのものが存在しないと考える説もあるようです。平家物語の冒頭の「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」を中学の教科書で素読した思い出がある方も多いと思いますが、諸行無常は「永久不変のものはこの世にない」という意味でした。その根拠を仏教では無常を分析してすべての事象は「刹那滅」という一瞬の間に生じて滅することの連続に過ぎないと考えて説明しています。
現象を心象がつくりだしているのかも知れません。確実にあるのは今この瞬間だけ。過去も未来も、今の私たちの心の投影に過ぎないと考えることができそうです。(文・正木)
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#続けられる何かを続ける

ずっと続けている事はありますか?10年20年と続けるのは大変なようですが、続けられるのには理由があるはずで、その理由を考えてみると自分にとって大切なもの、本質的な何かがわかるかも知れません。
7歳の時に兄を亡くし、その日から般若心経をあげるようになりました。誰に教えられたかも覚えていませんが子供なりに兄が喜ぶと思ったのでしょう。以来、祈り方やその内容の変遷はあるのですが、日々の生活の中に祈りの時間があります。また、趣味の登山も若い頃は雨が降ったり濃霧に包まれたりすると「チェッ」と思っていましたが、最近は足元に注意することで集中力が高まり、瞑想に近いような気持ちで歩くようになりました。1時間くらいは雑念が湧いてきますが、2時間くらい経つと視界と同様に真っ白な気持ちになって、いつの間にかその山で亡くなった方々の慰霊や、同じ山域を登山する人たちの安全を祈ったりしています。ずっと続けていることが、つながってひとつになっていくのは興味深いところです。(文・正木)
7歳の時に兄を亡くし、その日から般若心経をあげるようになりました。誰に教えられたかも覚えていませんが子供なりに兄が喜ぶと思ったのでしょう。以来、祈り方やその内容の変遷はあるのですが、日々の生活の中に祈りの時間があります。また、趣味の登山も若い頃は雨が降ったり濃霧に包まれたりすると「チェッ」と思っていましたが、最近は足元に注意することで集中力が高まり、瞑想に近いような気持ちで歩くようになりました。1時間くらいは雑念が湧いてきますが、2時間くらい経つと視界と同様に真っ白な気持ちになって、いつの間にかその山で亡くなった方々の慰霊や、同じ山域を登山する人たちの安全を祈ったりしています。ずっと続けていることが、つながってひとつになっていくのは興味深いところです。(文・正木)
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#自立 助けを求めることができること

自立した人というと自分で何でもできる人をイメージしそうですが、むしろ人に助けを求める事ができる人なのではないかと思います。若い頃はわからないことを「わからない」と言えず、できないことを「できない」と言えませんでした。経験を積み、わかることやできることが増えると「わからないから教えて」「できないからやって」と言えるようになりました。また、自分では到底できないような大きなテーマにでも取り組もうと考えるようになり、そこに私心が無いと確かめた上で必要に応じて堂々と人に助けを求める事ができるようにもなりました。会社であれ、ボランティア活動であれ、組織はその為にあるとすら思います。
小さい子が何かしようとして上手くいかない時に、大人が焦れて手伝ったりすると泣き出すことがあります。子供の場合は見守るべき成長と言えますが、大人の頑固はむしろ未熟さと反省します。(文・正木)
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#相応しい道具を使いこなす

プロフェッショナルの条件には様々なものが考えられますが、その一つは「ふさわしい道具を使いこなせる」ことだと思います。作るものに応じて実に様々な道具がありますが、それらを適切に選び、正しく使いこなすことは素人には難しいものです。さらに、私が本当に凄いと思ったプロフェッショナル(職人)は道具そのものから作っていました。ある木工の職人は削りたい曲線に応じたカンナを特注し、ある菓子メーカーの社長は菓子職人ですが、機械メーカーの製品では独自性が出せないとして、製造機械そのものを設計していました。確かに、生地とクリームの味こそ違うものの、同じ形状のお菓子は、巷に多くみられます。職人でなくとも、この「道具」を「言葉」に置き換えて応用することができます。外国語のみならず、プログラミング言語の習得や、敬語を使いこなすこと等々、ふさわしい言葉を適切に使いこなし、時には新しい言葉を生み出すことで、異なる領域に踏み込めたり、次のステージに進めたり、新しい人や物との関係をつくりだせるかも知れません。
#使っている言葉を見直してみる

北極圏の先住遊牧民ネネツ族には「ありがとう」という言葉がない、というルポタージュを読んで興味をもちました。調べてみるとボルネオ島の森の民プナン族には感謝も反省の概念もないようです。ネネツ族の長に謝意について尋ねると「自分たちが、それと同じ気持ちを持った時には言葉ではなく行動で示す」と答えたそうです。プナン族の場合は、そもそも専有の概念がなくモノをもらっても礼を言わず、壊しても謝る必要はないそうです。これらは助け合うのが当たり前の共同体志向の強い伝統的社会にみられる傾向です。
自国語は文化の基盤ですから大切なことは間違いありませんが、こういった文化人類学的視点は示唆に富みます。日本人にとって「ありがとう」は大切な言葉で多用しますが、言いたくなるところをじっと我慢して態度や行動で謝意を表してみると、いつもの関係に変化があるかもしれません。そんな実験は面白いと思います。(文・正木)
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#売り買いは対等

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#考え、発し、行動する

前回、「ありがとう」にあたる言葉がない民族について書きました。助け合いが当たり前の社会であることに加え、謝意は行動で示すとのことでした。かつての日本では不言実行は美徳とされましたが、いつの間にか有言実行が、むしろ責任を伴う行動として評価されるようになりました。きっと口だけで威張る人が多過ぎたせいでしょう。言葉は時代と共に変わっていきます。言行一致とも言いますが、ここに意識も加わると「身口意の一致」という仏教の言葉になります。心の中で思うことまでを一致させる必要を説くのが仏教らしいところです。
ではなぜ必要なのかと考えると不一致は不幸の元だからでしょう。心と言動が反していることは仮に他人にバレなくても自分の心は知っています。死者の魂を裁くとされる閻魔様に嘘は通用しませんが、この閻魔様とは実は自分の良心のことで、死ぬときに悔いとして思い出され心の奥から現れるのだと想像します。もちろん多くの場合は、生きている間にバレたり、自ら悔いたりして反省の機会があるので、そこで救われます。(文・正木)
ではなぜ必要なのかと考えると不一致は不幸の元だからでしょう。心と言動が反していることは仮に他人にバレなくても自分の心は知っています。死者の魂を裁くとされる閻魔様に嘘は通用しませんが、この閻魔様とは実は自分の良心のことで、死ぬときに悔いとして思い出され心の奥から現れるのだと想像します。もちろん多くの場合は、生きている間にバレたり、自ら悔いたりして反省の機会があるので、そこで救われます。(文・正木)
#詩のように生きる

「花はなぜ美しいか」の問いに詩人の八木重吉は「ひとすじの気持ちで咲いているからだ」と書いています。教科書的には「昆虫による受粉を促し種を保存するため」だそうですが、正しくてもつまらないと感じます。「百花春至って誰が為にか開く」という禅語がありますが、花はただ咲いているだけであり、無心に生きることが結果として自分だけでなく他をも活かすことになるという教えです。私は、むしろ人の心がそう感じるように発達したのだと考えました。実や葉や根は実際に食べることで身体を成長させますが、花は心に作用し成熟させるのだと思います。美しいと思っていない人もいるのではと疑い、その心は未熟なのだと仮説しました。恥ずかしながら、それは自分の事です。景色として美しいと感じることはあっても、一つ一つの花を、たぶん私は人がそう言うほどには美しいとは感じていないように思います。未熟なまま枯れたくはありません。人生は物語のようですが、せめてその後半は詩のように生きたいと願います。