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#比較しない 自分の基準

良い店、美味しい店をお客さんが投票して評価するアプリがありますが、私は疑問を持っています。「多くの人が良いと言っている」のは「行列のできる店なら美味しいだろう」といった感覚に近いのかも知れませんが、実際に並んでいる人が見えるならば、例えば若い人ばかりが並ぶ店だと私は(きっと嗜好が合わないと想像でき)「並ばない」という選択ができるのですが、アプリだとその行列(数値の構成要素)は見えないのでアテにならないのです。
多数決で良い店を決めるのはナンセンスで、せいぜい家族やよく一緒に食事をする友人の評判を手掛かりにするくらいで良いのではないかと思います。ただ、この言い分には年齢や経験といった要因もあるかも知れません。私も若い頃には観光地の名所の写真を撮って周るような旅行をしましたが、今は気に入った景色を見つけては写真に納めます。自分の基準で行動する方が幸福度は高まると思うようになりました。(文・正木)
多数決で良い店を決めるのはナンセンスで、せいぜい家族やよく一緒に食事をする友人の評判を手掛かりにするくらいで良いのではないかと思います。ただ、この言い分には年齢や経験といった要因もあるかも知れません。私も若い頃には観光地の名所の写真を撮って周るような旅行をしましたが、今は気に入った景色を見つけては写真に納めます。自分の基準で行動する方が幸福度は高まると思うようになりました。(文・正木)
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#豊かさとは経験の多さ

豊かさというと何を思い浮かべますか?経済的豊かさはわかりやすいですが、心の豊かさとは何でしょうか?私は経験の豊富さだと思っています。若い頃は良い経験を積もうと考えましたし、周りの大人からもそう言われたように思います。しかし、自分が年を取って思うのは良し悪しは選ぶものではないということです。どんな経験も心の糧になると思いますし、多ければ多いほど豊かになれると思います。善行を積むという言葉があります。良い行いをするということですが、その基準は何でしょうか?飢えて死にそうな蛇が鼠を食べようとしている場面で、自分はどうすれば良いかと考えてみて下さい。チベットの僧侶に教わった話ですが、鼠が食べられるのは可哀そうと思って救ったならば、結果として蛇が飢えて死んでも悪業にはならない。飢えた蛇が可哀そうと思って見逃した結果、鼠が食べられて死んでも、それは悪業とはならないそうです。仏の教えを参考にするならば行動の動機が経験の良し悪しを決めるということになります。選ぶのではなくどう受け止めるか、ということなのだと思います。(文・正木)
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#不完全を愛でる

共創型モノづくり「この指とまれ」で蓋物のお椀をつくろうと陶芸家の方に相談しています。粘土で形づくった際にはピッタリ合っている蓋が、焼くと収縮率の違いで合わなくなることがあるそうです。そう聞けば「そりゃそうだろう」と思えます。腕の問題かと言えばそうとも言い切れず、一定の割合で生じ、合わないものは破棄するそうです。歩留まりが悪くなる分は正規品のコストに反映されることになります。面白いことに、以前に老舗料亭で江戸時代の器だというカタカタと音がする蓋物を「最初は合っていたかも知れないが、たくさんあるからいちいち合わせていられない」と説明されましたことがありますが、他の客人も私も妙に納得して料理を頂いたことがあります。
その背景にあるものを知って理解し、あるいは経験して納得すれば許容できることは沢山あります。いっそのこと、これを文化的成熟と考え、その不完全さを愛でることができたら豊かな気持ちになれそうです(文・正木)
その背景にあるものを知って理解し、あるいは経験して納得すれば許容できることは沢山あります。いっそのこと、これを文化的成熟と考え、その不完全さを愛でることができたら豊かな気持ちになれそうです(文・正木)
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#誰かの幸せは自分の幸せ

「和をもって貴しとなす」は聖徳太子による十七条憲法の最初の言葉としてあまりにも有名です。続く第二条で「篤く三宝(仏、法、僧)を敬へ」とするほど仏教に帰依した太子が血で血を洗う争いの時代を終わらせ、国を定めるべく制定された日本初の憲法は、今に至るまで日本人の価値観や精神の真ん中に息づいていると思います。仏教には「随喜」という言葉がありますが、誰かが善い行いをして徳を積んだならば、それを喜ぶというものです。心から喜べば、その人と同じ功徳を自分も積んだことになるとされています。これの反対が「嫉妬」で煩悩の一つです。
「慈悲(思いやり)」は心の灯明(ロウソクの灯)を誰かに分け与えるようなものなのだそうです。いくら分けても自分の灯は消えない。もし消えたとしても周りが明るければ困らないし、また分けてもらうこともできる。この例えはチベット僧から教えてもらいました。幸せな人の笑顔に囲まれていたら自分も幸せですよね。和顔施(わがんせ)と言って、やさしい微笑みをもって人に接することもお布施らしいです。(文・正木)
「慈悲(思いやり)」は心の灯明(ロウソクの灯)を誰かに分け与えるようなものなのだそうです。いくら分けても自分の灯は消えない。もし消えたとしても周りが明るければ困らないし、また分けてもらうこともできる。この例えはチベット僧から教えてもらいました。幸せな人の笑顔に囲まれていたら自分も幸せですよね。和顔施(わがんせ)と言って、やさしい微笑みをもって人に接することもお布施らしいです。(文・正木)
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#続けられる何かを続ける

ずっと続けている事はありますか?10年20年と続けるのは大変なようですが、続けられるのには理由があるはずで、その理由を考えてみると自分にとって大切なもの、本質的な何かがわかるかも知れません。
7歳の時に兄を亡くし、その日から般若心経をあげるようになりました。誰に教えられたかも覚えていませんが子供なりに兄が喜ぶと思ったのでしょう。以来、祈り方やその内容の変遷はあるのですが、日々の生活の中に祈りの時間があります。また、趣味の登山も若い頃は雨が降ったり濃霧に包まれたりすると「チェッ」と思っていましたが、最近は足元に注意することで集中力が高まり、瞑想に近いような気持ちで歩くようになりました。1時間くらいは雑念が湧いてきますが、2時間くらい経つと視界と同様に真っ白な気持ちになって、いつの間にかその山で亡くなった方々の慰霊や、同じ山域を登山する人たちの安全を祈ったりしています。ずっと続けていることが、つながってひとつになっていくのは興味深いところです。(文・正木)
7歳の時に兄を亡くし、その日から般若心経をあげるようになりました。誰に教えられたかも覚えていませんが子供なりに兄が喜ぶと思ったのでしょう。以来、祈り方やその内容の変遷はあるのですが、日々の生活の中に祈りの時間があります。また、趣味の登山も若い頃は雨が降ったり濃霧に包まれたりすると「チェッ」と思っていましたが、最近は足元に注意することで集中力が高まり、瞑想に近いような気持ちで歩くようになりました。1時間くらいは雑念が湧いてきますが、2時間くらい経つと視界と同様に真っ白な気持ちになって、いつの間にかその山で亡くなった方々の慰霊や、同じ山域を登山する人たちの安全を祈ったりしています。ずっと続けていることが、つながってひとつになっていくのは興味深いところです。(文・正木)
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