《錢屋の110年》 2021.1月号より

昭和の終わり頃の大阪の商家のお正月と初荷

  前回までは明治の創業から昭和初期の話でしたが、今回は時系列を離れて正月らしい話を少し書かせて頂きます。中学生くらいだった私(4代目社長、正木裕也)の記憶にある昭和の終わり頃のお正月の光景です。錢屋本舗は、今は商社化して出荷作業はなくなりましたが、昭和50年代までは今の錢屋本舗南館や錢屋ギャラリーが倉庫で、毎日のように出荷していました。 
 当時の大晦日は集金を終えて戻れば店仕舞いでした。元日は休みでしたが敷地内や近隣に社宅もありましたから社員が家族連れで、晴れ着で来社され、皆で新年を祝いました。2日は新年の初出荷、これを初荷と言いました。店頭に火鉢がいくつも並べられ、幹部社員の奥様方は総出で関東煮(おでん)の炊き出しをされました。
私は子供時分から鯨のコロが大好物でした。その頃は生のコロが手に入ったのだと思いますが、プチっとした歯ごたえがあり、噛むと中からトロリとコクのある脂が出てきました。番重には黒ゴマが掛かった俵むすびがぎっしりと並べられ、大振りの沢庵が添えられました。年始の挨拶に来られた方々には酒と一緒に振舞い、社員も腹ごしらえをしてはトラックに商品を満載して出かけ、配達しては戻りを繰り返し活気に溢れていました。高度経済成長を遂げ、一億総中流というある種の夢を叶え、バブルに浮かれる前の日本の、大阪の商家の正月の一コマであったと思います。

 「ヨイ ヨイ ヨイ 初荷じゃヨイ えびす、大黒、跳び込んだー 大きな鶴が舞い込んだー ヨイ ヨイ ヨイ 初荷じゃヨイ」

  これは初荷囃子と言っていたと思います。調べてみても由来はわかりませんでした。私の小さい頃の写真が残っていますが、皆で半纏に前垂れを掛け、鉢巻といった出で立ちで手拍子を打ちながら囃して荷を送り出しました。昭和の終わり頃といっても、その当時ですら既にこれを続けているところすら少なくなっていたと思います。
  縁起の良い言葉が並びますので、初荷をしなくなった今となっては、その一節を会社の名刺に書き残し、お目に掛かった方々にお配りしています。
中学生くらいまで、初荷を手伝う振りをしながらコロばかり食べていました。初荷が終わってからが正月休みでした。(文・正木)

※見出しの写真について:
創業者 繁吉と3姉妹。大阪の商家の伝統では女性が店を継ぐので大切に育てられました。本文と時代は違いますが、昭和の初め頃。いとはん(正子)、なかんちゃん(恵美子 私の祖母)、羽子板を持っているのが繁子、こいさんです。

つかまり立ちがやっと。4代目社長の裕也、1歳7ヶ月。