《錢屋の110年》 2020.12月号より
創業時の苦労と得た教訓
前号では創業者 正木繫吉が、創業から1年間は元日以外は休みなく働き続け、軌道に乗るかと思いきや後にミナミの大火を呼ばれる大火災の類焼で店を失い、更に明治天皇の崩御とその後の不景気で移転を繰り返し、江戸堀に落ち着くところまでを書きました。
実は開業の前から繫吉は大変な苦労を重ねたようです。生家の正木家から13歳で大井家に養子に入ります。大井家は神戸の商家であり資産家であったようですが日露戦争で繫吉が3年間の兵役を経て23歳で戻った際には戦時好況の反動で金融が行き詰まり、その処理に奔走しますが遂に破産の憂き目に遭います。無一文から26歳で煎餅職人として再起を図ります。生家は明石群垂水村の代々村長、寺社総代を務める地主、養子に入った家も資産家ですから言わばぼんぼん育ち、養家の没落がきっかけとはいえ26歳で職人の世界に入るのはさぞかし辛かったろうと思います。
①帆は八分目に張って常に余力を蓄える事 ②名誉に憧れて濫りに人の長とならざる事 ③無理な負債は絶対にせぬ事 これらが教訓として残っています。
話が逸れますが、企業理念や経営理念という言葉を使われるようになって久しいですが、弊社には創業者の言葉として残っているものは先の3つの教訓しかありません。ただ、エピソードの多い人で伝えられている言動や足跡などから、現在にまで息づく思いを汲み取ることはできます。お付き合いいただけるならば、このコーナーでは社の歴史を振り返ると共に創業者の人物像をご紹介していきたいと思います。
ひたすら働いた創業期から、やはり働き続ける発展期へ
大井家の復興を胸にひたすら働いたようです。夕食までに1日分の仕事をし、夕食後に半日分のいわば残業をし、それを1年間続けたようです。職人は宵越しの金は持たない流儀で日当を前借してまで遊ぶのが当たり前の時代だったようですが、繫吉は大井家復興の一念で一切の無駄遣いをせずに貯金し、それが錢屋本舗の創業資金となったようです。
前置きが長くなりましたが、ここからが前号の続きです。江戸堀に移転してからは、焼菓子工場をつくりビスケット等を量産すると共に問屋を開業し、有力メーカーの特約を取り付け、自ら営業開拓し2年後には販売網を近畿から中国、四国、九州、朝鮮にまで広げたようです。同業者と協業しながら事業拡大すると共に現在の業界組合の基礎となるものをつくったようです。
大正8年にヨーチビスケットの製造を開始します。ヨーチとは幼稚園のことですが、どうも子供向けのお菓子というような意味で砂糖掛けビスケットそのものの呼称だったのではないかと思われます。今でも駄菓子屋などでは動物の形をした砂糖掛けのビスケットを動物ヨーチと言って売られていたりします。当時の錢屋本舗の広告には「リーフ幼稚園」「交通幼稚園」の表記がありますが、葉っぱ型や乗り物型などがあったのかも知れません。
それまで東京から仕入れるしかなかった幼稚園ビスケットの製造を始めるとたちまちに、その品質が評判となって「東京品を駆逐し時代の寵児となった」と当時の業界誌が伝えます。(文・正木)