《錢屋の110年》 2020.11月号より

110年前、明治43年はどんな年?

 明治43年11月13日が錢屋本舗の創業の日です。110周年となりました。当時の世相はどんなだったのか、ウィキペディア(Wikipedia)で調べてみました。
 前年に伊藤博文が暗殺され、その犯人に死刑判決が下り処刑されました。日韓併合条約調印、日本は韓国を併合しました。箕面有馬電気軌道(後の阪急電鉄)が梅田〜宝塚間・石橋〜箕面間で開業し、京阪電気鉄道本線の大阪天満橋〜京都五条間が開業したのもこの年です。武者小路実篤、志賀直哉らによって文芸誌「白樺」が創刊され、柳田國男が「遠野物語」を発表しました。75.3年周期で地球に接近するハレー彗星の尾の中を地球が通過(直近では1986年2月、次回は2061年7月)し、映画「リング」でもモデルとされた千里眼事件が起きたのもこの年でした。ペコちゃんでおなじみの不二家さんは弊社とは3日違いの11月16日に開業され12月には日本初のクリスマスケーキを販売されたそうです。

錢屋本舗、創業時の様子は?

 錢屋本舗の創業の日は日曜日でした。正木繫吉は当時27歳。創業の地は「南区高津三番町」とあるのですが、現在の住所でどの辺りかはわかりません。間口二間奥行二間半(約3.6m×約4.5m、5坪)の小さな店でした。資本金は煎餅職人として修業中に貯めた七十円と借入百五十円の計二百二十円。そこから敷金や家賃を払い、煎餅型、鍋窯、その他道具一式を揃え、原料を仕入れ、四十円を残して予備金として古市銀行に貯金したようです。戦時中も戦火の中を持って逃げたほど大切にしていた当時の大福帳(金銭出納帳)の最初のページに「一、五拾銭タライ」とあります。開店の日は店先には打水もしたでしょう。店内も道具も清め、手口をすすいで仕事を始めた事でしょう。
 その日から満一年の間は元旦を除いて364日間休まず働き、翌年の11月に結婚をしますが、その2ヵ月後の明治45年1月16日に後に「ミナミの大火」と呼ばれる5,200戸を焼失した大火災の類焼で店を失います。大損害を受けますが一部の道具を持ち出して北区西堀江通二丁目阿弥陀池東門脇に移転、すぐに資金難に陥り、更に明治天皇の崩御によって世の中が沈み、不景気と相まって大正2年には西区新町南通りへ、3年11月には江戸堀南通二丁目へと次々と移転しています。この移転先が広く、煎餅の他に焼菓子製造を始め、これがこの後に延びる基盤となりました。そこから十数年を経て昭和の初めには菓子製造業界で「江戸堀将軍」と異名を得るまでになったようです。(文・正木)

※見出しの写真について:
大正時代の初め、江戸堀にお店を移転した頃の写真と思われます。
看板は「錢屋本舗」ですが半纏の襟の字は「錢屋正木商店」と読み取れます。
中央に創業者正木繫吉、その左右には長女正子、次女恵美子。いとはんとなかんちゃんです。