UEMACHI & LIFE 2021.12月号
松原 利巳さん
近鉄アート館プロデューサー
咲くやこの花賞 総合プロデューサー
Fesnet代表
10年前と今とで、この町は何が良くなって何が悪くなったか。
そして10年後は?暮らす、働く、楽しむ、学ぶ、育てる、育つ、老いを迎える…。
この町を行き交うさまざまな人が、それぞれの思いで描く10年後の寄せ書きです。
再び上本町を
関西の演劇文化の拠点へ
私の上本町とのかかわりは、1985年にリニューアルオープンした近鉄劇場と近鉄小劇場のプロデュースをしたことがきっかけです。
その2年前から上本町の再開発プロジェクトが始まり、建築家の村野藤吾が作った映画館を改装して劇場にすることが目玉でした。
当時の私は、プレイガイドジャーナルという情報誌の演劇担当編集者であり、演劇制作やイベント運営のほか梅田の小劇場「オレンジルーム」の企画にも携わっていましたので、参加することになりました。
当時の関西は学生演劇ブーム。
オレンジルームはその拠点で、将来的にはそこから発展させるための中規模劇場が必要でした。
東京では小劇場ブームが起こり、小劇場から中劇場を経てメジャーになる、いわゆる「演劇すごろく」があり、大阪でも学生演劇ブームのエネルギーを発展させる「大阪版・演劇すごろく」が必要だと思ったのです。
偶然にも近鉄劇場と同時期に扇町ミュージアムスクエア創設のプロジェクトも動き出し、両方のプロジェクトに参加した私は、扇町に200人規模、上本町に1000人規模の近鉄劇場と400人規模の近鉄小劇場を提案。
これは上本町を活性化させるためには、そのくらいインパクトがあることを徹底的にやらないと効果はないと考えた私が強引に提案しました。
近鉄劇場完成後は、どうすれば上本町を関西の演劇の拠点にできるかを考えました。
観客層が非常に幅広かった演出家蜷川幸雄さんの「近松心中物語」、小劇場で人気の夢の遊眠社や第三舞台といった来阪していなかった劇団を誘致。それから3年ほどで様々な東京の人気劇団が登場するようになり、関西での近鉄劇場の役割が明確になっていきました。
その後、近鉄劇場はバブル崩壊後の2004年に閉鎖します。
関西でようやく劇場環境が整った時期で、20年近く、関西の演劇シーンを活性化してきた拠点としての役割を担ってきたと思っていたので、多くの演劇人とともに中心や目標を失った喪失感はぬぐえませんでした。
今も同様の状態であるのが残念です。
今後、上本町が以前のような関西の演劇拠点に一気になれるとは思いませんが、うえほんまち錢屋ホールがあることによって、この場所にアーティストが集まり新しいことが生まれてくることを期待しています。やはり準備期間は必要です。
時間はかかるかもしれませんがとにかく「継続は力」。
必ず何かが生まれてくるはずです。