UEMACHI & LIFE 2023.5月号

藤田 富美恵 さん
童話作家
朝日カルチャーセンター童話通信講座講師
心斎橋大学童話・エッセイ講座講師

10年前と今とで、この町は何が良くなって何が悪くなったか。
そして10年後は?暮らす、働く、楽しむ、学ぶ、育てる、育つ、老いを迎える…。
この町を行き交うさまざまな人が、それぞれの思いで描く10年後の寄せ書きです。

歴史を受け継ぐ空堀のまちの昔と今

大阪城の空の堀があった後らしいので、空堀と呼ばれる高台の一帯は、昔から水の質が良く、白蝋づくりには最適な場所だったようです。
 
婚家も安政の頃から、蝋燭や鬢付け油の原料になる晒蝋製造(因みに屋号は銭屋)を生業にしており、近所には同業者が数軒ありました。
 
作業場は、空堀商店街を南北に横切る表通りのお祓い筋から、一筋西に入った四軒長屋の前の幅広い路地です。
ここに掘った直系二メートル位の井戸で晒蠟の原料になるハゼの実を晒して、真っ白い蝋を作っていました。
 
最盛期の明治中頃には、井戸の前や路地奥に職人さん家族が住む長屋を四十数軒建てましたが、大正に入って蠟燭、日本髪や髷の鬢付け油の消費が減るにつれて、晒蝋の需要も次第に落ちていき廃業。
その後は、職人さん達の住まいであった長屋を貸す借家業に転じました。
 
戦争の時も焼け残った長屋は、昭和を経て平成に入っても何軒かは、建てた当時の状態を補強しながら借家業を続けていたのですが、やがて総てが空き家となりました。
 
そこで六年前の二〇一七年、路地の中の四軒長屋のうちの三軒を知り合いの、重度身体障がい者「デーセンターいるか」代表・伊原誠一さんと工務店経営・米口篤志さんの手助けで、柱だけ残したひと続きのレンタルスペース「大大阪藝術劇場」に改修、写真や美術の展覧会、関大OBの落語会も始めました。
また上町筋近くに事務所のある、ちんどん通信社・林幸治郎さんの協力で「にわか」の再現もしています。
 
現在では知る人はほとんどありませんが、現代大阪の落語・漫才・喜劇等の源流ともなる「にわか」は、江戸時代中期の享保年間(一七一六〜一七三六)に、大阪の夏祭りの折に始まったと伝わる路上での即興劇です。
 
高津神社の氏子である先祖も、夏祭りには御神灯を掲げた家の前に床几を出して「にわか」を楽しんでいたことと思います。こんな様子を目に浮かべながら、今は私も近所の人と、林さんたちの「にわか」を楽しんでいます。