《ゼニヤのキホン》 2026.2月号より

鬼は外でいいの?

節分のそもそもを考える

節分には「鬼は外、福は内」という言葉とともに豆をまく習慣があります。年中行事として親しまれていますが、そこには災いや不安と向き合ってきた人々の知恵が込められています。鬼とは何者なのかを考えながら、節分という行事のそもそもの意味を問い直してみます。

民俗学の視点では、鬼は単なる悪者ではありません。鬼は山や森、夜、季節の変わり目といった、人の生活の外側や境目に現れる存在として語られてきました。疫病や天災、突然の死など、理由の分からない出来事は人々に強い不安を与えます。そうした理解しがたい現象に姿を与え、教訓として語るために生まれたのが鬼であったと考えられます。このような見方は、柳田國男以来の民俗学で繰り返し示されてきたものです。日本昔ばなしでも、鬼は単なる悪役ではなく、どこか人間味を帯びた存在として描かれてきました。

能楽などの伝統芸能に描かれる鬼の姿も、同じ発想の延長にあります。舞台に現れる鬼は、ただ恐ろしい存在として暴れ回るのではありません。多くの場合、鬼は人の苦しみや執着の結果として顕れ、物語の中でそれを語り、やがて鎮まっていきます。芸能の場では、鬼は一定の型と作法の中で扱われ、仕舞には法力などによって制御される存在として位置づけられています。これは、社会にとって不安定な要素を排除するのではなく、受け止め、形にする役割を芸能が担ってきたことを示しています。ヒーロー物のアクション作品でスカッとするのとは違います。

NHKの連続ドラマ『ばけばけ』をきっかけに、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の書物を読みました。鬼や異形といった存在に対して、排除ではなく、まず理解しようとする視点の大切さを改めて感じました。当時の西洋から見た異国である日本を、あたたかく見つめる八雲の姿勢には、豊かな感受性と包容力があります。異なるものを一方的に恐れるのではなく、その背景に目を向ける姿勢は、古くからの民俗的な感覚とも重なっています。

節分の豆まきも、こうした考え方と重なります。鬼は力で打ち負かされるのではなく、決まった言葉と動作によって外へ送られます。民俗学では、この行為を、災いを単に追い払うためのものではなく、いったん受け止めたうえで鎮め、日常の世界から距離を取らせるための儀礼と捉えます。

注目すべきなのは、鬼が完全に消される存在ではないことです。節分は毎年行われ、鬼もまた毎年現れます。これは、災いや不安が人の暮らしからなくならないことを前提とした考え方だと言えるでしょう。だからこそ能楽においても、鬼は討ち滅ぼされるより、苦しみを表現しきったのちに鎮まり、哀れさえ感じさせる存在として描かれるのです。

では、現代の私たちは「鬼は外」という言葉を、実感をもって使っているでしょうか。鬼を単純な悪として外に追いやることで、本来向き合うべき不安や違和感が消え去るのでしょうか。節分の機会に内なる鬼に向ける眼差しを、少しだけ温かいものへと変えてみると、新しい年に迎える福に変化があるかもしれません。(文・正木)