《ゼニヤのキホン》 2023.2月号より

石ヶ辻の由来

錢屋本舗本館は石ヶ辻町にありますが、この地名の由来は明治時代に遡ります。明治の初頭、天王寺村大字天王寺の一部で石ヶ辻と野中を小字名にもつ地域だったようです。野中には野中地蔵堂があり、墨汁を注いで祈願するとご利益が得られるという立像の石像が門前にあったことが『摂津名所図会大成』(巻の四)に記されているようで、この石仏の辻にちなんで石ヶ辻の地名が成立したと考えられています。

上本町の由来については、巻末の「寄書 未来の上本町」で大阪歴史博物館の大澤館長が語ってくださいましたが、京都などの例では天皇の鎮座する北を「上」として地名が成り立っているので中央区の本町に対して東側にあるのに「上」が付くことに疑問を持っていたところ、これは高低差を表すのだろうというご意見でした。豊臣時代の大坂は城の南と西にふたつの本町を擁する都市だったわけです。石ヶ辻や上本町の周辺の町を調べると、生玉町、生玉寺町、生玉前町は言わずもがなですが、生國魂神社が所在することに由来します。生國魂神社は元々は、神武東征の際に生島神と足島神の2柱を現在の大阪城の辺りに鎮祭したのが創建とされています。織田信長による石山合戦の兵火で焼失した後に、豊臣秀吉の築城に伴って現在の地に遷座されました。上汐は菅原道真公が左遷される途中、潮待天神(生玉寺町 法泉寺内)において引き潮を待ったという故事に由来するそうです。また、上之宮町は聖徳太子の祖父にあたる欽明天皇社(上之宮)をこの地の産土神として祀ったことが由来で、北山町は上町台地の中でも小高い地勢であったために北ノ山と呼ばれていたことによるようです。

桃丘の由来

以前にも書いたと思いますが、桃の時季が近づくと思い出していただきたくて…また書きます。

かつて、この界隈は桃の名所だったようです。その様子は江戸時代の錦絵などにも描かれていますが、いくたまさん(生國魂神社)の参道でもあり随分と賑わったことでしょう。前段でご紹介した石ヶ辻、上汐や上本町の一部、上之宮、北山などを含む一帯を桃丘と言います。桃山も地名として残っていますし、環状線に桃谷駅がありますが、これも桃の名所であった名残と言えましょう。地形としての谷だったわけではなく、桃畑の広がりが長い距離にわたる割に幅が狭いので、美称として「谷」を用いたとされています。桃丘の東側は陽がよく当たるからでしょうか、桃陽地区といいます。

地名の由来を知ることで、今の私たちの生活も歴史の営みの中にあることが感じられるのではないでしょうか。 

石ヶ辻の風景