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UEMACHI & LIFE 2024.10月号

桑原 年弘さん
藤次寺 住職

10年前と今とで、この町は何が良くなって何が悪くなったか。
そして10年後は?暮らす、働く、楽しむ、学ぶ、育てる、育つ、老いを迎える…。
この町を行き交うさまざまな人が、それぞれの思いで描く10年後の寄せ書きです。


谷町不動尊と日本最大の地蔵大仏
地域に開かれた藤次寺

藤次寺は弘仁年間(810〜824年)に、藤原冬嗣によって藤原北家の安永を願って作られました。近年は、開創1200年の記念事業に取り組んでいます。まずは太平洋戦争の空襲で消失した護摩堂を復興させ、真言宗において大切な護摩行を行いたいと考え、不動明王(谷町不動尊)をお迎えしました。今後は護摩堂を再建のうえ、大阪市内で修行体験ができるようにしたいと思っています。また、先に再興したのが慶応4年(明治元年)の神仏分離令で表舞台から消えた地蔵院です。3階分の吹き抜けに、大仏師松本明慶氏、明観氏、宗観氏の親子三世代仏師が手掛けてくださった日本最大の木彫り地蔵大仏を昨年末にお迎えしました。

藤次寺の本尊は、如意宝珠融通尊(宝生如来)。「大阪の融通さん」の愛称通り、融通を聞いてくださる如来さまには江戸時代以降、船場の商人の方々が商売繁盛を願ってお参りされてきました。またお墓が建てられるようになると、船場の商人の方々がこぞってお墓を作り、今の真法院あたりに屋敷を構えて、藤次寺で先祖参りをして船場の店に行くことが当時のステータスだったようです。宝生如来は願い事をかなえる如意宝珠を現すお姿であり、経典では大海龍王が体内に秘めていた珠とされます。大阪は回船問屋など航海に関係した商売をされる方が多かったので、如意宝珠を持つ宝生如来は敬われたのでしょう。それを証明するように、藤次寺には江戸後期の海運業者である高田屋嘉兵衛やこんぶの小倉屋山本が出自である作家・山崎豊子さんのお墓があります。

大阪城から一列に寺社がつながり集まる上町台地、これは日本全国的にも希少です。その中で藤次寺としては、谷町文化発祥の地になり、地域に開かれた寺であることを大切にしたいと思っています。そして皆様が気軽に立ち寄って谷町不動尊や地蔵大仏にお参りしていただきたい。一方で藤次寺第108世の私としては、1200年続いてきた寺をより良い形で後世に残していけるバトンランナーを目指します。(取材・山田/前田)