《錢屋の110年》 2021.4月号より
売り買い対等な関係
前回は井原西鶴の浮世草子から「才覚」「算用」「始末」といった商人の本質的な価値観について触れましたが、昨今のお金にまつわる価値観で気になっている事があります。
千円を払って千円分の物品やサービスを受け取ったら売り買いは対等なはずです。ところが、いつの間にかこの関係を、あたかもお金を払った側が上であるかのように考える風潮があり、世知辛い世の中になったと思います。
本来の原価に対して、多くの割合を広告費に充てるような製品や、クレームを一定の割合で発生するコストと見込む大企業の体質が関係性を壊し、消費者の多くも疑問もなく慣れてしまったのかもしれません。対等な関係は互いに見識や気配りが必要で、売った側か買った側かで上下を決める必要も根拠も本来はないはずです。昨今、話題になっている接待もそうですが、御礼の意味合いならばともかく、接待されたから買うというのならば情けない話です。必要を見極め、適正分を支払って売り買いするならば対等で尊大になることも遜ることもなく、問題が生じても普通に話し合って解決できるのではないでしょうか。クレームは売り手側のそもそもに誤魔化しがある場合、過剰になるのだとも思います。コロナ禍はタテマエやウワベの付き合いをやめるにはいい機会かと思います。
今でも料理屋さんを出る時には「ご馳走さん」、タクシーを降りる時には「ありがとう」と言ってお金を支払う方は大勢いらっしゃると思います。それが自然な関係なのでしょう。
お客様は神様か?
「お客様は神様です」とは三波春夫さんが言って昭和の時代に流行し、一般化した台詞ですが、この真意が誤解され広まったことも関係性がおかしくなった理由の一つかもしれません。三波春夫さんの公式サイトを調べると、ご本人は「あたかも神前で祈るときのように、雑念を払ってまっさらな、澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。」と述べておられます。
お客様を神様と思って心を込めて接するのは素晴らしいことですが、お客様が自分を神様だと思っている訳ではないのです。考えてみれば当然ですが錯覚すると罰が当たりそうな話です。
お金に 置き換えない尺度
「金の切れ目が縁の切れ目」ということわざがありますが、それも情けない話だと思って調べたところ、元は遊女が使った言葉だそうで、さもありなんといったところです。
先祖から大切に受け継いだ形見や遺品を現代の価値に換算すると幾らになるかといったテレビ番組も面白いのはわかるのですが、何でもお金に換算するのは昨今の悪い癖だと思います。
仏教では和顔施といって笑顔で人に接することもお布施らしいです。これは得というより徳の話しでしょう。
前回、「算用」の考え方で「算盤を弾く」には「損して得とる」といった感覚があると述べましたが、得は徳とも通じます。貯金をするように徳を積むことを得と思えるかどうかですが、そうありたいと思います。