《ゼニヤのキホン》 2024.3月号より
ウチの子もヨソの子もない
自分の子と同じように他人の子を叱っていた時代がありました。私がその叱られていた子供だった頃ですからかなり前ですが、大人に威厳と信用があったと思います。常識という共通認識があって、それに基づいて善悪を判断できた時代だったという事でもあります。
ところが多様化を受け入れようという時代になったにもかかわらず、従来の常識に凝り固まって自己変革できない一部の大人は、社会の、特に一世代若い人達の信用を失ったのかも知れません。核家族という言葉すらが死語のごとく、家族のあり方が変わり、異なる世代が同居しなくなって相互理解が困難にもなりました。個人主義的思想が広まった背景もある気がします。大人と子供という横の連帯よりも、ウチとヨソという縦割の分断が重視される事になった訳ですが、改めて大人同士が信頼を高め、子供に寄り添える社会でありたいと思います。
分断は他にもいくらでもあります。国境はその最たるものでしょう。イデオロギー、宗教、民族、人種、性別、あらゆる境界線で争いが起きています。守るべき何かのための区別の場合もあるでしょうが、どれかひとつの境界にだけこだわると、それは殺し合いにすら発展するわけです。境界そのものがなくなれば良いのですが、そうもいかないならば、せめて多様性を受け入れようというわけです。これは、文字通り縦横無尽に縦横の境界を切り替えて物事を捉えることだと思います。そのためには幅広い知識や経験、それに伴う理解と多彩な視点、そして何より思いやりの心が大切だと思います。違いを争いの口実にせず、より多くの共通点を見つけられるはずです。そして、柔軟に見方、考え方を切り替えながら話し合うわけですが、もちろん容易なことではありません。人類は進歩したように思えても、いまだに争いが絶えないのですから。政治的対立がある時は文化的交流を深めるというようなことでは、成功例はあると思います。
身近なところでは、高校野球では、最初は地元大阪代表を応援します。惜しくも敗れたら次は近畿勢のどこか、そして西日本、それも残らなかったら大阪代表を破ったチーム、終いには「みんなよくやった!」となります。敵味方の境界を切り替えながら、応援する口実を見つけて声援を送り続けるから、最後には勝ち負けに関わらず清々しいのでしょう。引越してきたお隣さんと騒音で揉めたけど、猫好き同士とわかって仲良くなったというような話しだってあるでしょう。
私は自社の社員と他社の社員を区別しないで、何なら仕事も頼むし、相談にも乗るように心がけています。拝金主義的発想は趣味に合わず売り買いは対等だと考えますから仕入れ先と得意先の区別も、お客さまと社員の区別もせずに全体を見渡して考えることがあります。お金を頂いているか、支払っているかの違いでしかなく、同時に物品やサービスを交換しているのですからお金に縛られない価値観に基けば、何らかのご縁で、あるいは関心を持って錢屋本舗に関わって下さっている方々ということになります。そこから会社の運営のヒントを得たり、社会に対して新しい価値の提案ができるのではないかと思っています。(文・正木)